Sangkai Zomeki - Unspeakable Practices, Unnatural Acts. -
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臭い


 このところ、眠れない夜が続いていた。身体は疲れているのだが、どうにも寝付かれない。もっとも、原因ははっきりとしていた。布団に入って、闇の中、天井の染みをぼんやりと眺めていると、どこからか、妙な臭いが漂ってくるのである。あるいは、はじめから臭っていたのが、横になって、落ち着いた心持ちになったことで、神経が研ぎ澄まされ、急に知覚せられたのかもしれぬ。臭いは、それくらいに微かなもので、目に染みるような刺激臭の類ではない。なにか、ドブ川に浮いた魚の屍骸――といっても、そんなものの臭いを、直接に知っているわけではなかったが――反射的に、胃の中のものを全て吐き出してしまいたくなるような、そんな臭いである。それが、微かではあるが、鼻腔に感じられてくることには、疑いようもなかった。
 こうしたものは、気になりだすとキリのないものである。それどころか、気にすればするほど、臭いは激しさを増していくように思われた。布団を頭から被り、努めて口で息をするようにしたところで、そんなものはたかが知れている。うつ伏せになって、顔を枕に押し付けてみたり、右へ左へ、身体を捻ったりして、気が付くと、カーテンを透かして、東の空が白々としてくるのを、恨めしく眺める日々が続いた。
 ある晩、私は、布団から這い出して、臭いの元をたどってみることにした。とにかく、その臭いがどこからくるのか、見当だけでもつけておきたい。四つん這いになって、床に鼻面を押し付けたり、テーブルの上に乗って、伸びをして天井裏を覗きこんだり、端から見たら、こんな時分に、気でも狂ったのかと思われたことだろう。いや、実際、連日の睡眠不足から、すっかり憔悴しきっていた私は、すでに、発狂する一歩手前だったのかもしれぬ。そうして、深夜、何時間もがたがたとやっているうち、臭いは、押入れの中から発せられているのではないか、という疑念が湧いてきた。しばらくためらった後、思い切って開けてみると、次の瞬間、果たして、喉の奥から酸っぱいような液体が込み上げてきた。両腕を滅茶苦茶に回し、あたりの空気を振り払う。もはや、口で息をすることも堪らなかったから、呼吸を止めたまま、中を探ってみた。薄暗い中、目を凝らして見るが、けれども、様子にとくに変わったところはない。越してきたときのままになっている、ダンボール箱が幾つかと、これもそのまま放ってあった、黒ビニールが一袋、それだけである。中を認めると、私は慌てて押入れを離れた。それから、部屋にある窓という窓を開け放ち、額にびっしりと張り付いた汗を、シャツの袖で拭うと、そこでようやく、人心地ついたのである。
 さて、押入れに異常がないとなると、今度は、押入れを挟んで、壁一枚を隔てた隣りの部屋が怪しい、ということになる。隣りの部屋の住人とは、私が越してきたときに、一度顔を合わせただけで、ほとんど口を利いたことはない。青白い顔をした、痩せた猫背の男で、そのときの印象は、薄気味の悪いものであった。

 私は仕事の都合上、世間がまだ、寝静まっているうちから起き出し、そうして、夜の街の喧騒を尻目に床に着く、という生活を余儀なくされていた。それがためか、近所付き合いというものはほとんどなく、当番制になっていたはずの、水周りの掃除や下足箱の整理も、いつのまにか、私だけが順番から外されているのだった。共同の流しは、部屋を出てすぐのところだったから、朝早く、薄暗い中で顔を洗えば、水しぶきの音は無論、細長い廊下中に響き渡っていたことだろう。他の住人たちから、多少疎ましく思われていることは、私にも薄々知れていた。
 臭いの出所が隣りの部屋だとすると、あの陰気な男が、私に対して何かしらの嫌がらせをしているのではないか、と考えた。だとしたら、すぐにでも隣りへ怒鳴り込み、事によっては張り倒してしまえばよい。けれども、もしそうでなかったらどうだ、こちらにとって悪臭であるとはいえ、それが私の生活習慣と同様、致し方のないものであったとしたら。下手なことをすれば、下宿内での私の立場は、取り返しのつかないものとなってしまう。ここはひとつ、相手の様子を伺いながら、事を穏便に進めていく必要がある。それには、まず、なんとか隣りの男と口を利く機会を設けなければならない。しかし、私の生活はこの有様だ、いったい、どうやって……?
 ところが、その機会は、意外にもすぐ、しかも、向こうの方からやってきた。
 その日、眠ることを諦めた私は、東の窓越しに星が見えなくなる頃、いつものように流しで顔を洗っていた。と、頭を下げた拍子に、視界の隅を何かが霞めた。蛇口に湾曲した人影が映っている。振り返ると、男が立っていた。その顔は、夜明け前、薄紫の空気のせいか、私の記憶よりも、なおいっそう青白く浮き上がって見える。声が出なかった。挨拶さえ、ろくにできない。男が口を開いた。
「このところ、眠れなくてね」
 結局、臭いのことは言い出せなかった。部屋へ戻ってから、私は身体が小刻みに震えるのを、必死で抑えつけた。なにも食えなかった。部屋の中は、相変らず、嫌な臭いが漂っている。

 流しでの一件以来、私にとって臭いの存在は、もはや単なる気紛れな悪臭などではなく、耐え難い恐怖の対象、私を脅かす得体の知れない何かであった。隣りの部屋、おそらくは私の部屋と同じ造りであろう、狭い、薄暗い部屋の中で、夜な夜な、寝る間も惜しんで悪臭を発し続ける男。しかも、その悪臭は、他でもない、この私に対して向けられた、手の込んだ嫌がらせなのだ!
 薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がった青白い顔、そうして、その顔に、後から無理矢理捻じ込まれたような、ぎょろぎょろと動く二つの目玉、その目玉が、目尻に薄ら笑いを浮かべて、こちらを見ている。思い出す度、背筋を伝って、冷たい汗の玉が流れ落ちるのがわかった。
 できることなら、男に許してもらいたい、と思った。私の、なにが悪いわけでもないのは、無論である。しかし、そんなことなど、もはやどうでもよかった。今は、ただ、楽になりたかった。今度こそ、私の方から話し掛けねばならない、そうだ、きちんと話しさえすれば、わかってもらえるはずなのだ。
 それから数日後のことである。その日は祝日で、私は、かねてから、この日が来るのを待ち望んでいたのだった。祝日であれば、私の特殊な生活習慣とは関係なしに、私の心がけ次第で、下宿の他の住人たちと、口を利くことができる。なにより、昼間の明るさが心強かった。情けない話ではあるが、私の心は、それほどまでに疲弊し切っていたのである。幸い、外は好く晴れていた。暖かな春の陽射しが、部屋中に湛えられ、束の間ではあったが、私は、あの忌まわしい臭いの存在すら、忘れていたのである。
 昼過ぎ、私は意を決して、いよいよ隣りの部屋へ行こうと、スリッパを履いた。と、その時である。目の前の戸を、誰か、ノックする者があった。私は出鼻をくじかれたような気分になり、少しばかりイライラとしたが、努めて平静を装い、静かにどなた、と応えた。返事はない。頭に血が上っていくのを、こめかみのあたりに感じつつ、私は乱暴に戸を開けた。
 隣りの男がいた。
「そちらの部屋から、妙な臭いがするのですが……」
 私は、頭の中で、何かがパチン、と弾ける音を聞いた。


 以下は、隣人の証言である。
「――あれは、うちのビニール袋の臭いだ、と言うのです。私の顔を見るなり、こちらが、まだ何も話していないうちから、嘘じゃない、嘘だと思うなら、来て見てみればいい、と一方的に捲し立てるのです。額に汗をびっしょりとかいて、歯をカタカタと震わせながら。仕方がないので、中へ足を踏み入れ、言われるまま、押入れを開けてみました。あまりの臭いに、一瞬、眩暈がしたほどです。で、言うとおり、そこには黒いビニール袋がありました。そうして、中を覗いてみると、アレがあったのです……」
 腐乱し、もはや人相はわからなかった、という。(初出・『新青年』昭和二十五年四月号嘘)




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