Sangkai Zomeki - Unspeakable Practices, Unnatural Acts. -
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こめきねそ



1.深夜、冷蔵庫を開ける

 のどが渇いたので何か飲もうと思い、冷蔵庫を開けると、中が階段になっていた。
 冷蔵庫が入り口だから、狭くて細い階段である。それが、下へ向かってまっすぐ伸びていた。十メートルほどいったところで壁に突き当たり、そこから右へ、直角に折れている。その先は暗くてよくわからなかったが、まだ奥のありそう様子が、影の濃さからもうかがわれた。いつのまにここは隠し扉になっていたのか。
 身をかがめて中へ入ると、背中でひとりでにドアが閉まるのを聞いた。とたんにぱっとあたりが明るくなって、この仕組みは冷蔵庫とは逆なのだな、と思った。明るさは裸電球ほどで、けれども、首をひねってもそれらしいものは見当たらなかった。階段はつるつるした平たい石でできていて、その場でじっとしていると、足の裏から表面の冷気がひんやりと、ふくらはぎのあたりまで伝わってくる。壁と天井は暗いオレンジ色をしていたが、それはこの明るさのせいでそう見えるだけで、本当は白いのかもしれなかった。表面のざらざらしているのが、触らなくてもわかるほど、粗く塗られている。
 私は曲がり角のある突き当たりまで下りてみることにした。五、六歩行ったところで、天井がしだいに高くなっていくことに気づいた。そのうちかがまなくても頭がつかえなくなってきて、やがてすっかり立ち上がってしまうことができた。上から見下ろしたときにはわからなかったのだが、どうやらこの天井は、下へ向かって広がるように、斜めになっているらしい。けれどもぴったり私の背丈までくると、あらかじめ測ってあったかのように、それ以上天井の高さが変わることはなかった。
 突き当りを曲がると、思ったとおり階段は続いていた。十メートルほど下にまた壁が見え、その先もやっぱり、同じように右へ折れている。入り口から見下ろしたときの様子と何も変わらなかった。それでなんとなく、先へ進むことがためらわれた。
 振り返って見上げると、冷蔵庫のドアの内側があった。マヨネーズの朱色のキャップが目に入った。ラックもそのまま、隣にソースの容器が立てかけてあるのが見えた。てっぺんには昨日買ってきた卵も並んでいるはずである。私はもう少し先まで行ってみることにした。
 次の突き当りまで半分ほど来たところで、私は、自分がTシャツ一枚でここまできてしまったことに気づいた。ジーンズはひざ丈で切ってあったので、ごじごじの野菜のようなすねがむき出しである。踏み出した足は素足だった。
 と、そのとたん、背中に冷たいものが走ったかと思うと、すねの毛が逆立ち、見る見るうちに鳥肌が立ってきた。足の裏がちくちくする。じっとしていると、そのまま床に張り付いてしまいそうである。交互に踏みかえながらあたりを見回すと、いつのまにか、壁一面に霜が降りていた。吐く息が白くにごり、それがそのまま粒になって、足の甲へ降り落ちてきた。下あごが、そこだけ別の生き物のように小刻みに震え、かつかつと頭の中でやかましい音を立てる。なんだ、サーモスタットか、霜なんか降りて、この冷蔵庫は壊れているのだろうか。
 引き返そうとして振り向くと、さっきの突き当たりの壁が見えた。のっぺりと隙間なく塗り固められた壁が、まわりの狭さとあいまって、私はなんだか息苦しいような気持ちになった。
 それは気のせいではなかった。どうしたことか、次の瞬間、吸っても吸っても息が追いつかなくなってしまった。あごを上げて、口をぱくぱく、ぱくぱくと、甲板に引き上げられた魚のように――。
 ――ようこそのお運びさまで、お暇をいただいといてなんですが、こう見えて、アタクシは焼き物でして。魚なんぞは食えません……。
 声がした。こめかみが絞めつけられるように痛み、ついでめまい、ぐにゃぐにゃ壁が融け出したかと思うと、ぼんやりとしたオレンジが、一面の鮮やかな赤一色に変わった。遠のいていく意識の中で、私は、部屋に残してきた仕事のことを考えていた。
 私の仕事は書くことだった。私は書かなければならない。私の記憶、私の、私だけの思い出を、書きとめておかなければならなかった。

 ――女が泣きながらしがみついてきて、何かしきりにあやまっている。
 私は彼女の後ろ頭を抱いて、髪をくしゃくしゃにしながら、自分の胸のあたりに押しつけていた。さっきから何度ももういいから、もういいからとくり返しているのに、どういうわけだか声が出ない。女は全然泣きやまない。涙と吐く息とで体温がしだいに高くなってくるのを感じながら、けれどもそのとき、変に私の心は落ちついていた。
 目が覚めてから、私は、息苦しいような、甘ったるいような、やるせない気持ちになった。その女とはこの一年くらいろくに口もきいていなかったし、いなくなってしまって、会えなくなってからは、もう半年以上になる。
 自分は本当に嫌な人間なのだ、と思った。しばらく起き上がることができなくて、じっと汗の引くのを待っていた。身体中がざわざわして、それがなかなか静まらない。私はまだ、ばらばらなのだ。彼女の匂いと、身体のやわらかい感触が、いつまでも抜けなくて困った。けれども、ずっとこのままでいられたら、とも思った。
 今年の一月半ばに、三年半勤めた会社を辞めた。送別会には出なかった。実際にはそのひと月前から有給を取っていたので、私の中ではもう終わったことになっていた。そうしたかった。なんだか納得のいかないところもあったし、世話になった人たちには悪いが、今までのいろいろなことすべてから自分を遠ざけたかった。預金がまだいくらかあったので、とりあえず失業保険給付の手続きを済ませて、すぐに職を探しはじめた。
 それから約半年が経った今、私は未だに失業したままである。自己都合で退社した者が、保険の給付を受けるまで執られる待機期間も、後少しで終わろうとしている。
 何につけてもそういうものだが、下手に動き回って何度も駄目を出されていると、そのうち自分が取るに足らないもののように思われてきて、やがて本当にそうなってしまう。そこからはい上がるのがどんなに難しいことかは、経験からわかっていた。
 けれども、私はまたしてもそこに落ちてしまった。映画館の切符切りのアルバイトを断られてから、何もする気が起きなくなった。国民の義務を放棄しているのだから、私は非国民ということになる。私は社会に属していなかった。何にも属していないし、何もしていない。私は、無だ。
 私は一日中寝ていた。寝ているのであまり疲れなかった。そのせいか空腹も感じない。ほとんど何も食べず、起き上がるのは便所へ行くときと、流しへ水を飲みに行くときくらいなもので、部屋の外へは一切出なかった。そんな生活が一週間ほど続いた。それでも、私はいくらでも寝られた。
 二十二日が誕生日だった。三十になった。タバコが吸いたくなって、布団から腕だけ出して枕元を探ってみたが、手ごたえがなかった。台所の戸棚に買い置きがあるのを思い出し、かけ布団を引きずりながらはっていって、開けてみると、なかった。洗面所へ行き、顔を洗うついでに鏡を見た。削げ落ちた頬に無精髭の私がいた。私は鏡に向かって話しかけた。――

 気がつくと、私はいつもの液晶の画面に向かっていた。手元には使い慣れたキーボードがあった。画面の中もそのままで、かぎカッコを閉じたばかりの主人公のせりふが目に入ると、私はしだいに落ちつきを取り戻していった。

 ――「おい、よく眠っていたな。今日もまたこれから寝るのか。お前は一日中寝ている、いい気なもんだ。お前は駄目な男だ、三十年も生きれば、もう十分だろう。なんだその顔は、死んだような目をして、せいぜい、寝ているのがお似合いって顔だ。眠ってしまえば、さっきみたいに彼女にも会えるかもしれないしな。悪いことは言わない、さっさと布団に戻るんだ。そうして、どこへでも好きなところへ行けばいい」――

 けれども、なんだか様子がおかしかった。
 ここは私の部屋ではなかった。四方を壁で囲まれた、ほんの四畳半ほどの、私の知らないところだった。窓も出入り口もなく、真ん中に小さな作り机がひとつと、その上に私のノートパソコンが置いてあるだけである。壁は――壁は白い塗り壁だった。表面がざらざらしている。さっき冷蔵庫の中で見たものと、よく似ていた。
「そらあ似てるよ。アンタはまだ、こっちの世界にいるんだから。冷蔵庫の中にね」
 びっくりして振り返った。誰もいない。
「いやすまねえ、ここだ、ここ」
 つま先に何か触れるものがあった。ひんやりしている。それが次の瞬間ごそり、と動いたので、あわてて机の下を覗き込んだ。
 トカゲがいた。左奥の脚の陰から、身体をにぶく光らせてこちらを見上げている。全長は十センチ足らずで、そのほとんどが尻尾だった。部屋を見回したときに気づかなかったわけである。けれども、トカゲにしては胴回りがほっそりしているような気がした。よく見ると、足の指先がとがっている。鼻も細かった。こいつはトカゲじゃない。
「カナヘビかい。アンタには、俺がそう見えんだね。まあ、なんでもいいや」
 カナヘビが口をきいたが、私はもう驚かなかった。代わりに、わきの下から冷たい汗が噴出してきた。汗は二の腕をつたって、ひじまで一気に下りてきた。
 私は自分の部屋に帰りたいと思った。私には仕事が残っている。私には時間がなかった。
 すると、カナヘビがまた口を開いた。
「仕事ならここでやりゃあいいさ。何をそんなに焦ってんだい。それに、ここは冷蔵庫の中なんかじゃねえよ。さっきはアンタに合わせて、そう言っただけでね」
 抑揚のない、かさかさした声だった。奇妙に回る舌先を、私は見ていた。
「どうしたい。俺のことなんぞ気にせず、アンタは仕事とやらに取りかかりゃいい」
 いすに深くかけ直して、私は液晶の画面に向かった。ホームポジションに指を置き、けれども、そこから先へ進めない。数行打っては消し、打ち直してはまた消して、そうこうしているうちに小一時間が過ぎてしまった。カナヘビが、おせっかいにも教えてくれたのだ。
「なんだい、アンタの仕事てえのは、そうやって、机に向かってじっとしていることなのかい。漬物石みてえな野郎だな」
 タバコを吸いたくてたまらなくなった。カナヘビが続けた。
「こいつはいいや。俺が代わりてえくれえなもんだ」
 今度口をききやがったら、踏み潰してやる。
 机の下に頭を突っ込むと、カナヘビはもういなかった。どこかへ身を隠してしまったらしい。
 私は画面に向き直り、タバコを一本抜き出してくわえた。ライターで火をつけようとしたとき、おや、と思った。なぜここにこんなものがあるのだ。タバコもライターも、部屋に置いてきてしまったはずなのに。
 一服しながら考え、しばらくして、私は再びキーボードに向かった。段落を変え、空白をひとつ打ち込み、一度、大きく息を吸って、吐いた。それから一文字一文字、続きを打っていった。

 ――そうだ、私はどこへでも行けるのだ。好きなところへ、どこへでも。――

 次の瞬間、私は自分の部屋に戻っていた。座布団の上にあぐらをかいて、キーボードに向かっている。
 丸いちゃぶ台の、向かって右手にタバコとライターがあり、左手には灰皿と湯飲みが置いてあった。のどが渇いたので湯飲みに手を伸ばすと、中は空っぽになっていた。そうだ、それで私は台所へ行って、冷蔵庫を開けたのだ。
 私は帰ってきたのだ、と思った。頭の中で思い描いたとおり、あの世界とはおさらばできたのだ。私は番茶を入れようと流しへ立っていった。
「なかなか、飲み込みは早いみてえだな」
 背中を、いきなり突き飛ばされたような気がした。茶筒の内ぶたを落としてしまい、ふたは板張りの床を転がって、冷蔵庫の前でくわんくわんいいながら止まった。
「悪いが、アンタはまだこっちの世界にいるんだ。あいかわらず、冷蔵庫の中にいるんだよ」
 冷蔵庫の上にカナヘビがいた。耳の奥で、小さな音を立てて脈打つのが聞こえた。
「俺を叩き潰したところでどうにもなりゃしない。今度はバッタにでもなって、またアンタの前に現れるだけさ。まあ、そうコーフンしねえで、もう少しこの、レーセイになってもらいてえもんだね」
 言われて気がつき、振り上げていた握りこぶしをあわてて引っ込めた。流しへ頭を突っ込んで、水道の蛇口をめいっぱいまでひねる。
「いやね、そんなことをしても無駄ですよ。アンタは夢から覚めやしない。なにしろ、夢じゃねんだから」
 蛇口にねじ曲がった冷蔵庫のてっぺんが映っていた。カナヘビの口元が、にやにや笑っているように見えた。
「べつに馬鹿になんかしちゃいねえさ。むしろ、アンタには同情しているんだ」
 流しの上は小窓になっていて、すりガラス越しに夜の明ける気配がしている。
「ほうら、もう朝だ。アンタ、ぼんやりしていると、すぐに昼になっちまう」
 果たして、部屋の中がすっかり明るくなった。目覚ましを見ると十二時を指している。と、見る見るうちに長針が短針を追い抜き、大きな影が目の前を横切っていった。西側の窓が明るく染まって、気がつくと、もう夕方である。
「あっという間なのさ。いいかい、一切はただ、過ぎていくだけなのさ。何度も何度も、馬鹿みてえに同じことをくり返して……」
 悟ったような口をききやがって。こめかみの震えるのが自分でもわかった。
「哲学的かい。そうよ、哲学くれえ暇つぶしになるもんはねえやな。カナヘビだって、たまには考えるのよ。だいいち、そういうことをするのにはうってつけなんだ、ここは」
 なるほど、だから私の仕事にもうってつけというわけか――。

 ――あごのまわりに生えた無精髭をさすってみた。手のひらにざりざりと軽い刺激を感じる。耳を澄ますと、あたりが静かなせいか実際にざりざりいう音も聞こえた。しばらくさすっているうちに、それがなんだか楽しく思われてきた。そこで、今度は一定のリズムを取りながら、頬骨に沿って左右に大きく手のひらを滑らせてみた。さする角度を変えると、音も変わることに気づいた。
「寝るより楽はなかりけり、浮世の莫迦は起きて働く」
 母方の祖父が、よくそんなことを言っていたらしい。らしい、というのは、私は生前の祖父を知らないからで、祖父の顔は仏壇の写真でしか見たことがなかった。祖父は私の生まれる少し前に亡くなっていたのだ。
 その頃、病床の祖母はどういうわけだか、お爺さんが帰ってくる、帰ってくると始終、うわ言のようにつぶやいていたという。まもなく、私が生まれた。そのため母方の親類はみな、私を祖父の生まれ変わりと決めつけているようなところがあった。
 そういえば、あの仏壇の写真も、こんな髭面をしていたっけ。
 髭をさするのに飽きると、私は便所で用を足して、また布団の中へもぐり込んだ。目をつむってみる。まぶたの裏に、灰色をしたもやもやが、あっちこっちへ動いていた。まだ眠れる、と思った。そうだ、こうなったら眠れるだけ眠ってやろう、と思った。寝るより楽はなかりけり、浮世の莫迦は起きて働く。俺は莫迦じゃない、莫迦じゃないからこうして、また眠るのだ。明日のありやなしや、先のことなど知るものか。――

 画面から顔を上げると、一瞬、カナヘビの目がひるんだように見開いた。しばらく顔を見合わせたまま、私たちは黙っていた。
「ここまできといてそれかい……アンタ、こっちへ来るにゃあ、ちょいと早すぎたのかも知んねえな。ふん、まったく、粗忽な野郎だぜ」
 不意に、小さな音を立てて、冷蔵庫のドアがひとりでに開いた。中を覗き込んで、思わず息をのむ。
 そこには奇妙な光景が広がっていた。
 見渡す限りの赤土の荒野に、まず目に入ったのは、真正面の巨大な彫像だった。二頭身の猫が、こちらを向いてしゃがみ込んでいる。両手を耳の横にそろえて挙げていた。垂れ目で、鈴の付いたよだれかけをして、股のあいだに平たい楕円を抱えている。全体を赤で塗られているのと、両手を挙げているので気づかなかったが、「まねき猫」である。
 その奥に目を移すと、灰褐色の建物があった。建物といっていいのか、細長い立方体が棒杭のように立っている。ただくりぬいただけのように見える四角い窓が、縦に整然と並んでいた。どの窓も開け放たれている様子なのに、よほど中が暗いのか、影が濃くて何も見えない。建物自体もまた長い影を引きずるように落とし、赤土の荒野をこちらまで黒く切り取っていた。人っ子ひとり見当たらないのに、さっきから人のいる気配がしている。地平線と、嘘のような青空、くっきりと輪郭を持った雲。
 冷蔵庫を額縁に見立てて、まるで、キリコの絵を見ているようだった。カナヘビがその中に飛び込む。私も後に続いた。


2.思い出したことなど

 まわりの様子はその時々によって違っているのだが、とにかく、そこには人だかりができている。何かを見ているようである。私は一体どうしたのだろう、と思って、人垣をかき分けてその輪の中に入っていく。首を突っ込むと、そこでいきなり、見られているのが自分だということに気がつく。しかも私は、どういうわけだかワンピースを着ている。背中のところに五つボタンの付いている、淡い青色をしたやつで、いつのまに、どうやってそんなものを着たのか、わからない。それ以外には何も身に着けていないようなので、とたんに恥ずかしくなって身もだえするのだが、どうにもならない。
「そんなもの、いつまで着ているつもりなの」
 声を聞いて目が覚めた。灰色くすすけた天井が目に入った。心臓の音に合わせて、傘のない、むき出しの蛍光灯が揺れている。額にびっしりと汗の玉が浮き、首に手をやると濡れていた。かけ布団が手足にまとわりついてくる。引きはがして半身を起こすと、玉粒は削げ落ちた頬を一気につたって、あごの先からばらばらとこぼれ落ちてきた。シーツに点々と黒っぽい染みができる。
 私は風呂場へ移動した。途中、見ると足跡が一歩一歩、くっきりと床に残っていた。着ているものを脱ごうとしたが、袖口や背中にへばりついてしまって、うまくはがれなかった。
「そのワンピースって、実は、彼女のお気に入りのやつだったりして」
 むせ返った拍子に、タバコの煙を相手の顔へ、まともに吹きつけてしまった。
「や、平気っス。いずれにしても、それはワンピースを着ていた人に何かあるんですよ。つまり、ワンピースの中身はもういないんです。着るべき人がいないから、代わりに着ちゃった……まあ、まだ忘れられないってことですよ。無理もないっス」
 昼休みが終わって、現場のある公園へ戻ってみると、あたりがなんだか暗ったかった。その日は朝から小雨まじりで、公園といっても雑木林みたいなものだったから、そうでなくても薄暗いのだが、それにしてもこの暗さは不自然だった。まだ一時を過ぎたばかりだというのに、このあたりだけが、まるで山の夜のようである。
 女の子が待っているとあれだから、と奥へ足を踏み入れると、たちまち前後の感覚がおぼつかなくなってしまった。後ろから肩を突つかれたような気がして、見ると、枝を透かしてわずかに覗いた空が、幕を張ったように陰になっている。目を凝らして見なければ、こずえとの境もわからないほどだった。
 またか、と思った。
 いつのまにか、まねき猫がすぐそこまで降りてきていた。今月に入ってから、もうこれで三度目である。
 このままでは採光ができないので、一時間ほど待ってみることにした。けれども、真上にじっととどまったまま、動きだす気配は見られない。
 結局、午後に予定されていた撮影はすべて中止となり、女の子に本日分のギャラを渡して、われわれは事務所へ戻った。この頃はそういうことが多いので、思うようにスケジュールが進まない。午前中に撮った分の確認をして、それでもまだ上がるには早すぎる時刻だった。仕方がないので打ち合わせをはじめたが、いきおい、出てくるのはぼやきばかりになる。早々に切り上げてタイムカードを打った。

 最寄り駅のホームは、地上から入ると改札がいちばん端になる。乗り換えの都合上、前の方の車両に乗りたい私にとって、そこまで移動するのはかったるかった。冬は吹きっさらしの中、寒くてかなわないし、今のように蒸し暑い季節だとそれはそれで、向かいのデパートとの隙間へ、地上すれすれのところまでまねき猫が降りてきていたりすると、ビル風がまるで熱風である。
 そんなわけで、私はよく地下道を利用していた。この地下道は三、四年前にできたばかりで、ちょうどホームに沿って、真下を平行に走るかたちになっている。ふつう、地下道というと両わきに店が並んでいるものだが、ここは私のような客のために壁をぶち抜いただけの、ただの抜け道なので、両わきには大きな広告が並んでいるだけだった。
 私はこのところ、この地下道を通るのが帰り道の楽しみになっていた。
 広告のポスターの一枚に、気になるものがあった。
 それは清涼飲料水の広告で、私がそれをはじめて目にしたのは、テレビのコマーシャルだった。
 パジャマ姿の女がけだるそうに台所へ入ってくる。起きぬけなのか、冷蔵庫のドアをちょっと乱暴に開けて、中から飲み物を取り出す。フタをひねって窓際へ移動し、外を眺めながらラッパ飲みをするのだが、ここでペットボトルのラベルがアップになる。
 画面の右端に、なつかしい横顔があった。ピントはラベルに合わせてあるから、彼女は多少、ぼやけていて、それでかえって似ているように思われた。口を心持ちすぼめて、目をまるく見開いている。ポスターに使われているのもこのショットだった。
 他の広告は三ヶ月、長ければ半年くらい同じものが張られているのに、どういうわけだかこのポスターだけ、毎日違うものに張り替えられていた。写真は同じなのだが、左端にあるコピーの文面が毎日変わっていたから、やっぱり張り替えられているのだろう。
 コピーの内容はわけのわからないものだった。毎日ひと言だけ、誰かに話しかけるような調子で、たとえば、おとといは?やりきれないね?だった。昨日は?わかっているよ?――何がなんだかわからない。わからなくても、なんとなくなぐさめられているような気がして、いつのまにか読むのが習慣になってしまった。
 コピーの下にまねき猫のマークと、その上からかぶせるようにして、「染金」と江戸文字のロゴが入っている。広告主の関連会社なのか、レイアウトではコピーとワンセットになっているようなので、ポスターを毎日張り替えるのは、ここの都合によるものらしい。名前は聞いたことがなかったが、焼き物の専門店なのか、まねき猫のマークとは思い切ったことをするものだ、と思った。
 コピーへ目をやる。?こっちへおいでよ?――行ってしまいたい、と本気で思った。
 
 そもそもまねき猫自体、何がなんだかわからなかった。それは半年前、東京上空に忽然と現れた。
 朝、目が覚めると、私は布団の中でずくずく身体をねじって、うつ伏せになった。枕元へ腕を伸ばして、いつものようにカーテンを引く。天気が良ければ、遠く、東の方角に高層ビル街が見えた。
 上半身だけ起こして窓の外を眺めた。視界の上半分は水色で、下半分はごしゃごしゃと、全体としては灰色に見える。手探りで枕元の眼鏡を探した。見つからない。さらに奥の方へ目をやると、垂直に打ち込まれた棒杭が束になって、黒い壁のように見えている。いつもと変わらない風景――のはずだった。不意に、鮮やかな赤が飛び込んできた。下の方である。私は眼鏡をかけた。
 ビルのうちで一番高いものよりも、もっとずっと低い位置に、巨大な赤いかたまりが浮かんでいた。表面がつるつるしているのか、朝陽を照り返してまばゆいばかりである。と、それがゆっくり回転しはじめたかと思うと、なにやら顔らしきものが見えてきた。まねき猫だった。赤いまねき猫が両手を挙げて、宙に浮いている。私はしばらくぼんやりしてしまった。
 テレビのリモコンを探してスイッチを入れた。ひょっとしたら、隣のビルの屋上から、誰かが糸か何かでつるしているのかもしれない。けれども、朝のニュースではどこも取り上げていなかった。わけがわからないが、とにかく変種のまねき猫だとしても、大きさと、宙に浮いていることが不自然である。私は顔を洗いに行った。その日は朝から撮影が入っていた。
 翌日から、新聞の一面には毎日のように「まねき猫」の大きな見出しが躍った。チャンネルは時間に関わらず、どこをひねってもまねき猫だった。まねき猫・ウォッチャーの登場、書店へ行けば雑誌の類は巻頭特集を組み、平積みにされた何十、何百というまねき猫の専門書、インターネットの掲示板などでも、何千という板がまねき猫の話題で独占された。
 変化のないまま半月ほど過ぎて、人々の目にまねき猫の存在がなじんでくると、世間の関心は、果たしてこれは敵か、味方か、ということに移ってきた。しばらくすると、福を招くのだから味方に決まっている、という楽観的な意見が多数を占めはじめ、すると今度は、ではいったいどんな福をもたらしてくれるのか、という福の具体的な内容が云々された。
 あるとき、民放各局が共同でプロジェクトチームを組み、まねき猫と至近距離でのコンタクトを試みる、ということがあった。その様子はリアルタイムで全世界へ中継され、放送当日は誰もがまっすぐ家へ帰り、テレビの前でひざを抱えた。後で聞いたところによると、この番組の視聴率は七十五パーセントを記録したそうだから、たぶん、そんな感じだったろうと思われる。私も見た。
 まねき猫は東京上空を気まぐれに移動するため、まずはそれを追跡しなければならなかった。ヘリコプターに数人のエキスパートとアナウンサーがひとり、それから、いざというときのために各種武器弾薬がつめ込まれ、特設会場から飛び立っていく。
 アナウンサーがまねき猫からの攻撃をしきりに警戒する。エキスパートのうちでいちばん年かさの、世界一のまねき猫収集家を名乗る男が、落ちついた口調でそれについて答えていた。歴史的に見て、まねき猫がわれわれの敵であるとは考えにくい、なにしろ、あれは縁起物ですから――まねき猫をわれわれの味方とする場合の、お決まりの文句だった。
 けれども、アナウンサーはこわばった表情のまま、引き続き警戒が必要です、とにこりともしないで中継を切った。マイクを返されたスタジオの司会者も、備えあれば憂いなしですから、と言って今回用意された武器弾薬の説明をはじめている。なんだか様子がおかしい。言われてみればまねき猫の姿をしているだけで、それが本当にまねき猫なのかどうかは、まだわからないのである。
 一時間後、不意にまねき猫が停止した。池袋上空ということは、この近所である。吸いさしのタバコを灰皿の縁に押しつけ、そこでまだ半分ほどしか吸っていなかったことに気づいた。が、かまわずにもう一本抜き出してくわえる。追いつめました、ついに追いつめました、とアナウンサーがくり返した。まねき猫はヘリコプターの追跡とは関係なく、ただなんとなくそこで止まったようにも見えるが、相手は空飛ぶ縁起物である、何が起こるかわからない。くわえたタバコに火をつけて、私はまた画面に見入った。
 三十分が経った。動きはない。ヘリコプターの操縦士がスタジオから指示を受け、機体をまねき猫へ近づけていく。エキスパートによる調査がはじまった。
 さらに三十分後、まとめられた結果が発表された。両手を挙げて、赤色をしていることを除けば、後は一般的なまねき猫と同じ、常滑焼きのごくふつうのまねき猫である、どうやって浮いているのかは不明、とのこと。そこで放送予定の三時間が過ぎ、急きょ番組は三十分延長、そうそうたる顔ぶれのゲストが各々短いコメントを述べる。ところへ、ヘリコプターが特設会場へ戻ってきた。エンドロール、提供、番組終了。翌日、局側へ抗議の電話が殺到した。
 あれから四ヶ月が過ぎたが、結局、まねき猫は何もしていない。あいかわらず気まぐれに移動をくり返し、時折、ひとつところにとどまって、一帯に真っ黒な影を落とすだけである。

「今じゃもう、誰もまねき猫のことなんか気にしてないでしょ。ただ宙に浮いて、そのへんをふらふらしたりとかするだけだし」
 地下道を抜けると、改札の手前が、今度はモニターを埋め込んだ壁になっている。見ると、まねき猫Tシャツを着た若い男が、街頭インタビューに答えていた。雨んとき傘いらねえ、まねき猫サイコー、別の男が横から顔を出してカメラ目線で答えると、まわりの連中が大げさに笑った。
 乗り換え駅に着いたものの、なんとなく、すぐには帰りたくない気分だった。といって、行きつけの飲み屋は開いていない。今時分だと、まだ仕込みの最中である。途中下車をして、仕方がないので道すがら、ぶらぶら古本屋を覗いて回った。
 その店は、その手の雑誌や写真集を専門に扱っているところで、夕方というにはまだ早すぎる時刻だったが、狭苦しい店内は、それでもかなりの数の男性客で賑わっていた。
 みな押し黙ったまま真剣な目つきで、めぼしい本を手に取っては、じっと表紙を見つめたり、また棚へ戻したりしている。一冊ずつ薄いビニールコーティングが施されているので、中身を確認することはできない。
 ついでなので私も一冊買っていこうか、けれど雑誌なら会社に腐るほどあるし、ここはひとつ、新刊で買いそびれた写真集でも、などと考えながら物色していると、長方形の店内の少し奥まったところに、彼女の写真集を見つけた。よほど売れなかったのか、平積みで五、六冊並んでいる。
 その中の一冊をひとりの男が手に取っていた。背中を丸めて、じっと表紙を見つめたり、引っくり返して裏表紙を見たり、また引っくり返してはもう一度、表紙を見つめたりしている。なにやら思案気である。
 私はちら、ちらと男の様子をうかがっていた。男はまわりのことまで意識が回らないといった様子で、自分が見られていることにもまったく気づかない。どうやら彼女の写真集だけに興味を持っているようである。
 その写真集は私も持っていた。少し前、部屋の大掃除をしたときに、思い切って捨ててしまっていた。二冊目ということでかなり過激な内容だったと思う。今さら彼女の身体を見るな、などとは思うわけもなく、といってまるで気にならないかといえばそんなこともなかった。
 男は小柄で、痩せていた。青白い顔に、後から無理やりはめこんだような目をぎょろつかせている。光沢のある生地の背広を片腕にかけ、ネクタイが飛び出して中ほどからねじれていた。その先は背広の陰になっていて見えなかったが、端をシャツの胸ポケットへ押し込んでいるらしい。そのシャツはしわくちゃである。つま先のとがった靴だけがやけにつやつやとして、けれども、かかとの部分にはやっぱり不自然なしわが寄っていた。外回りの営業なら仕方ないが、どうしてこんな男に好かれたものか、あいかわらず写真集を手に取ったまま、表紙を見たり、引っくり返したりしている。
 と、何か思い直したように写真集を元あった場所に戻すと、混み合う通路を縫うようにして、出入り口へと向かっていった。ちょうど出入り口の隣りがレジになっている。店員がいるのはそこだけなので、ひょっとして、ひどく汚れているか何かして、取り替えてもらおうというのかな、と思い、なおも目で追っていると、男はレジを通り過ぎて、そのまま店から出ていってしまった。
 私は当てが外れたような、ほっとしたようなおかしな気持ちで、なんだか力が抜けてしまった。
 結局、何も買わずに店を出た。あの写真集は私も迷ったが、一度自分が捨てたものを、また買い戻すなんて馬鹿げている。それに、私の思い出す彼女はいつも裸でいるわけではなかった。あたりまえだが、服を着ていることのほうが多かった。
 淡い青色のワンピースは、彼女の誕生日に私がプレゼントしたものだった。それを着るときにはいつも、彼女はオレンジ色のサンダルをはいていた。そう決めているのだ、と教えてもらったとき、なんだかうれしかったことを覚えている。
 もっとも、ふだんよく着ていたのはトレーナーで、それは無地で綿製の、首のところに汗止めの付いているふつうのものだった。同じものを何枚も持っていて、色は全部ねずみ色だった。けれども彼女は、これはねずみ色ではなくて杢グレーというのだ、と目をまるくしてゆずらない。
 春先や秋口などに、季節柄、何を着ればいいのかわからないことがあるが、そんなときにも彼女はトレーナーを選んで着ていた。いつもひざ丈の半ズボンを合わせていたような気がする。半ズボンも無地で、深緑色をしていた。深緑色ではなくてモスグリーン、半ズボンもカーゴショーツ、という。
 部屋で退屈しているときなどに、私がトレーナーに鼻を押しつけて深く息を吸うと、くすぐったがって暴れた。かまわずに何度もくり返していると、そのうち力が抜けたようになって、床の上に寝転んでおとなしくなってしまう。胸のあたりに耳をつけるととくん、とくんとやわらかい音がした。甘くていい匂いがする。
 そうやって身体の重みをあずけていると、なんだか安心したのを覚えている。

 彼女とは仕事を通して知り合った。私の勤め先はビデオ制作会社で、といっても事務所はマンションの一室だし、社員も全部で十人足らずの、ごく小さなところである。
 まだ入社してまもない冬のことだった。ちょうど次の撮影に取りかかるところで、右も左もわからない私は、見習いも兼ねて主に雑用を任されていた。
 もっとも誰もがみんな雑用みたいなもので、ひとりひとりが撮影から男優、営業までこなし、そんな調子で多いときには月に十本くらい撮る。好きでなければできない類の現場で、私はとにかく足手まといにならないよう、気をつけることで精一杯だった。
 いわゆる素人もので、街で引っかけた女の子といっしょに温泉へ行って云々、というのが一応、人気シリーズだったのだが、そんなにうまいこと事が運ぶはずもなく、女優はたいてい風俗店に勤務する女の子に頼んでいた。まれに新聞の三行広告などを見て応募してくる子もいたが、ほとんどが面接を受けるだけで、撮影までこぎつけられない。その点だけは妙にこちらも紳士的なところがあって、無理強いはしないので、業界内ではかなり浮いていたと思う。職人気質の、気のいい連中ばかりだったのである。
 そんなわけで、今回も女優探しにいきづまり、また風俗嬢に頼もうか、ということになりかけた矢先のことだった。電話が一本入り、急きょ面接が決まった。たまたま受けたのが私だったので、私が面接も担当することになった。
 受話器越しに受けた印象では、この子には悪いけれども、ちょっと向いていないような気がした。とにかく、おとなしかった。自分の意志といったものがまるで感じられない受け応えで、誰かに無理やり電話をかけさせられたような、そんな雰囲気だったことを覚えている。
 面接は昼休みの後に予定していたのだが、約束の時刻の三十分も前にその子はやってきた。色の白い、ほっそりとした子で、電話で十九だと言っていたが、歳よりもずっと幼く見えた。
 ちょうど弁当を開いたところだったので、そばでじっと見つめられているのも落ちつかないし、面接をはじめてしまってもよかったが、飯を食いながらというのも悪いような気がする。聞けば彼女も昼飯はまだだというので、それならちょっと外へ一緒に食べにいこうか、彼女も、それでいいです、と言う。なんだか消え入りそうな声だった。 
 外へ出てからも彼女はあまりしゃべらなかった。話しかけても、はあ、とか、そうだと思います、とか要領を得ない。緊張しているのかな、と思った。あんなビデオを作っている男が相手である、緊張するなというほうが無理だけれども。
 話の内容が内容だし、なるべくひと気のないところのほうがいいだろうと思って、弁当と飲み物をどこかで買い、少し寒いけれども、近くの公園のベンチで食べながら話すことにした。彼女もうなずいた。
 そばにあったコンビニへ入り、私は五目ちらしとコーヒー、彼女は昆布のおにぎり一個と緑茶を選んだ。それだけでいいの、と聞くと、あまり食べたくない、と言う。そういうものかもしれないな、と思った。
 レジのところに中華まんの入ったウォーマーがあった。この季節、最小限の力で最大限の効果を期待できるものは何か? たった九十円の肉まんふたつで最高の幸せを味わえます! 街で女の子を引っかけるとき、私はいつもそんなことを言ってきっかけを作っていた。レジで肉まんを三つ追加した。彼女は先に店を出て、私が来るのを待っていた。
 公園はひっそりとしていた。すぐ裏が団地なのだが、最近の子供は外に出て遊ばないのか、それとも子供があまりいないのか、とにかく誰もいなかった。何本か木が植わっていて、けれどももう葉のあまり残っていない枝を見ていると、なんとなくこっちまで寒々した気分になってくる。顔を上げると、明るい水色の空に、タバコの煙のような雲が、薄く、ちぎれたように流れていた。ベンチはちょうど陽だまりにあって、私たちは並んで腰かけた。
 私はコンビニの袋をまさぐって、この季節、最小限の力がどうのと、つまらないことを言いながら、まだ熱い肉まんを取り出した。わあ、いただきます、真っ白な湯気越しに言ったが、このときはじめて彼女の笑った顔を見たような気がする。大きな前歯が覗いた。子供みたいだった。
 彼女は両手で肉まんを持ってふう、ふうとほおばっていた。小さな手だな、と思った。お互いに一個ずつ食べて、食べ終わってしまうと、急に寒さがきつくなったような気がした。後ひとつ残っている。
 もう一個食う、と聞くと、あ……と、ちょっと面白い顔をしたので、いいよ食って、食いなよ、と言うと、じゃあ半分こで、と言うので、半分にちぎって渡した。そうしてまた、両手で肉まんを持って、ふう、ふうとほおばっていた。
 面接ということで、聞いておかなければいけないことがいくつかあった。そもそもの動機とか、何をどの程度までやっていいのか、顔が割れる覚悟はできているのか、とかそういうことだ。
 けれども、私はどうしても言い出せなくて、しばらく他愛もないことばかり話していた。自分は人間計量カップと呼ばれていて、米を中心に神がかり的な正確さを発揮すること、田舎のおふくろとオセロをすると、おふくろは石を囲碁の要領で並べてしまうこと――。
 不意に、彼女が言った。
「あの……大丈夫ですから」  
 握っていた飲み物はとっくに冷たくなってしまって、それでも両手で握り締めていたのは、私も同じだった。見ると、細い指先がうっすらと赤く、かじかんでいる。タバコを吸いたくなったが、見つからなかった。
 近くに都電が走っていた。早稲田まで行くやつである。信号待ちをしている車より、一足先に、大きな半円を描きながら曲がっていくのが見えた。
 どうしてそんなことを言ったのか、後になって考えてみてもわからない。彼女もちょっと驚いた様子だったが、黙ってうなずき、とにかく、私の提案でそれに乗ることになった。
 切符を買って改札口を抜けると、なんだかもう、すべてがどうでもいいような気がした。たぶん、早稲田行きに乗ったのだと思うが、よく覚えていない。覚えているのは車内で何枚か写真を撮ったことで、彼女はしきりに恥ずかしがっていたが、私は夢中でシャッターを切っていた。
 このままふたりで逃げよう、どこか遠くへ行こう。
 戻ったら会社にはこう話そう。なに、大したことじゃない、いやあ、やっぱりあの娘、ダメでした、そう言えばいい。俺は新入りなんだし、大丈夫、きっとうまくいく。
 終点は早稲田だから、そう遠くはなかった。


3.招かれざる者

 地下鉄の駅構内へ続く階段の途中、下の方からひとり、男がこちらへ向かって上ってきた。
 薄暗い中、腕にかけた背広だけがきらきら光って見えた。ネクタイの端を胸ポケットに突っ込んで、よほど長いのか、それでもはみ出した部分が腹のあたりまで垂れ下がってきている。爬虫類のような目で一点を見つめ、何か、その先にあるものに吸い込まれていくようである。
 すれ違ってしまうと、急に不安になった。
 私は気づかれないよう、男の後をつけていった。男がさっきの古本屋に入ったので、私も入り、見ると案の定、彼女の写真集の前にいる。
 さっきと同じようにその中の一冊を手に取ったまま、コーティング越しにある彼女の肢体を、もどかしそうに見つめている。視線を上から下へ、下から上へと、なめるように走らせている。
 やめてくれ、と思った。私は身体を斜めにして、客の隙間を縫っていった。そばに誰か来れば様子が変わるかもしれない、そう思ったのだ。私はじり、じりと男の方へ近づいていった。とうとう、すぐ隣りまで来た。ぴったりと、肩も触れんばかりになってしまった。
 なんだこの男は。
 私がこんなに近くまで来ているというのに、まるで存在を無視するかのようにはあ、はあと息を荒くして、目を血走らせている。
 何か言ってやろうと思った。なんでもいいからめちゃくちゃなことを言って、とにかくこの男をこの場所から引き離さなくては。それが駄目なら殴りつけてやるまでだ――。
 すると男はくるり、とこちらを向いて言った。
「本当にいい女だねえ……アンタのつき合っていた女てえのは」

 それから後のことはよく覚えていない。頭がぼうっとして、自分では大声を出したつもりだったが、のどからは息しか出てこなかった。泣きたいような気持ちになって、たしか、私は男を殴りつけたのだ。男は半身でひょいとかわすと、身をひるがえしてどこかへ消えてしまった。いや、そうではない。信じられない速さで混み合った通路を抜けると、あっという間に店の外へ出ていってしまった。とっさに私も追いかけた。途中、何かにけつまづき、背中で怒鳴り声を聞いたような気がしたが、よくわからない。
 私は男を追って走った。店の前の通りに男の姿はなかった。それでも私は見当をつけて、駅とは逆の方角へ向かって走った。あたりの景色がぐんぐん後ろへ行き過ぎ、終いには灰色をした一枚の書き割りのようになった。時折、視界が上下して、自分は今、障害物を避けたのだな、とか曲がり角を曲がったのだな、とか、そういうことはみんな、後から意識に上ってきた。足下には一面の黒いしみが広がっていて、それ以外には何も見えない。わきを車が通り過ぎたような気がした。
 不意に、タイヤが水を裂く音が聞こえ、いつのまに降り出したのか、気がつくと、はいていたチノパンツがひざのあたりまで泥まみれになっている。すそは、しぼれば水が滴るほど真っ黒に濡れていた。鼻筋に沿って口へ流れてくるのは雨水なのか、汗なのか、なんだかよくわからない。のどが渇いた。スピードをゆるめて休めるところを探した。シャッターを下ろした乾物屋の軒先へ入った。
 わきにあった自動販売機でコーラを買って、つり銭を取ろうとしたとき、スニーカーの先へ何かが飛び出してきたのが見えた。あっ、と思って上から手のひらをかぶせたが、ぱっとまた機械の下へ潜り込んでしまった。もう、どうでもよかった。服が乾くのを待ちながら、しばらくぼんやりと突っ立っていた。
 見上げると、厚ぼったくむくんだような雲が幾層にもなって、今にも落ちてきそうである。ひと気のない、線路ぎわの遊歩道で、黒い舗道の行き先はかすんで見えなかった。私は線路に沿って歩き出した。遠く、前方に、まねき猫の赤い後ろ頭が半分、ビルの先から覗いている。このまま行けば駅に着く、そう思った。見ていると、なんだかいろいろなことを忘れていくようで、けれども、後に嫌な気分だけが残った。雨は小降りになっている。

 最近、タバコを吸うのが馬鹿らしくなってきた。
 どんなにきついタバコを、どんなに深く吸い込んでみても、以前のように肺をきゅう、と締めつけるようなあの感じはなくて、地下鉄の駅構内で深呼吸をしているような、そんな気分しか残らない。
 とうとうここまできたか、と思った。いつだって私は、何もかもが馬鹿らしかったのだし、馬鹿らしくなかったことなど、未だかつてなかったのだから。そんなふうに考えたりもした。
 この春のことである。左胸が急に痛くなり、それがあんまりひどいので、私は医者へ行った。
 肺をおおっているあばらの一本に、大きな釣り針が引っかかっているような気がした。それが息をするたびにこくん、こくんと震える。
 横になったとき、右肩を下にしていればなんともないのだが、左肩を下にすると、吸っても吐いても痛むので、眠れない。仰向けになると吐くときだけ痛む。前かがみになると、呼吸にかまわず痛むので、靴ひもを結ぶのに難儀した。笑ったり、くしゃみをしたりすると、べつに悲しいわけではないのに、涙が自然に出てきてしまう。
 我慢ができないというほどではなかったが、身体のどこかに痛いところがあると、何をしていてもうっとうしい。そんなことが一週間ばかり続いて、どうにも仕方がなくなってしまった。
「それは、典型的なエヌ・エス・エヌ・ケイの症状ですね」
 医者がタバコに火をつけながら言った。深呼吸をするように吸い込んで、しばらくして、ゆっくりと吐き出す。吐き出された煙はひとかたまりになって、部屋の隅に集まると、角をはうようにして上っていった。
「何をしても、何も感じない。でも、それは自分をだましているだけなんです。だましだましやってきたツケが、左胸から噴出してきた、まあ、そんなところです」
 好きな女が他の男に抱かれることなど、慣れてしまえばどうということもなかった。自分でビデオカメラを担いで、その様子を撮影するくらいなんでもない。好んでそんなことをしたがる人もいるご時世だ、仕事と割り切ってしまえば、それは大したことではなかった。
 月に一度、彼女が水色のワンピースを着てどこかへ出かけていくのも、そうして行き先のわからないまま一晩帰ってこないことも、いっしょに暮らしていればそういうこともある、その程度だった。後になって、彼女が幼い頃からずっと、今でも毎月、実の兄とひとつベッドで寝ていることを知ったときだって、そんなことはよくある話だ、と思った。
 彼女が部屋を出ていってしまい、会えなくなってからも、私はまた「暮らし」という、うすのろで、馬鹿でかい怪物と相対しなければならなかった。あたりまえだ。私は大人だったし、過ぎたことをいちいち気にしてなどいられなかった。
 すべては大したことではなかった。日常に過ぎない、些細なことだ、等々。
 治りますか。
 そう聞いた私の声が、あんまり淡々としていたので、自分でも驚いて思わず吹き出してしまった。すると、医者もつられ笑いで吹き出して、
「相当、重症のようですね」
 重症ですか。
 今度はもう、隠そうともせず、お互いに顔を見合わせて笑った。
 帰り道、図書館に寄った。半日かけて、医学書の索引を片っ端から引っくり返していった。残念なことに、歴史上、誰ひとりとしてこの病を克服できた者はいなかった。
 もっとも、そんなものに悩まされて、しかめ面をするのはごめんだ、と思った。わかっていることはたったひとつきりで、それは、生まれたものはみんな死ぬ、ということだった――そう思ったら、出てくる言葉はひと言だけ、はき捨てるようなひと言で終わった。そうしてまた、胸がこくん、こくんと痛む。眠れない。
 今の私に残されたことは、見ることだった。ただ、見る、ということ。それだけだった。
 だからといって馬鹿にしてはいけない、見るものの中には、とんでもない奇跡が隠されていることだってあるのだから。なまじ心が干からびてしまっている分、私はそれを見逃さないだろうし、最後まで見届けることができるはずだ。こうしている今だって、ひょっとしたら奇跡は起こっているのかもしれないし、それは踏み切りを渡ってすぐのところの、児童公園でタバコを吸っている、あの赤い髪の女が起こしているのかもしれない。
 そう思いたかった。
 ところで、それでもタバコをやめようとしないのは、ほとんど意地になっていたからである。

 踏み切りを渡ると、道なりに、公園のフェンスを回り込むようにして歩いていった。
 彼女はすべり台のてっぺんに腰かけていた。すぐわきの手すりに傘がかかっていて、彼女がもう、だいぶ前からそこにいたことを示していた。何を見ているのか、こちらへ背中を向けているのでわからなかったが、赤い髪の奥、手をしきりに顔のあたりへ持っていっては、面倒臭そうに地面に灰を落としている。下へ降りてくる気配はなかった。
 このへんは高層ビル街の真裏にあたり、まわりを居酒屋やラブホテルで囲まれていた。昼間でも人通りが少なく、ひっそりとしている。公園はすべり台と砂場があるだけの小さなもので、申し訳程度にベンチがひとつ、芝生はほとんどはげてしまい、むきだしの赤土が、遠くから見るとただの空き地にしか見えなかった。夕立の後の空気は湿っぽく、重みがあった。実際の時刻よりも暗い青色の中で、すべり台のてっぺんは、なんだかそこだけ浮き上がっているように見えた。
 通りに出ると、私はまっすぐコンビニへ向かった。この店は前に何度か使ったことがある。彼女の正面を横切るとき、目が合わないように、顔を見ないよう注意した。レジを通り過ぎて、L字型の店内の突き当たりまで行き、マガジンラックの前に立った。すべり台は道路寄りの端にあり、この位置からだと、ガラス越しに、通りを挟んでちょうど彼女の横顔が見えるはずだった。
 暗くて表情はわからなかった。タバコの火が赤くともって、すぐに消えた。影になったあごの角度から、斜め上を見上げているのがなんとなくわかった。視線の先に何かあるのかと思ったが、とくにそれらしいものは見当たらない。雑居ビルの、薄汚れた壁である。それでかえって、彼女は何かを見ているような気がした。こういうところでは、見ようとしなければ、目に映っても実際には見えないものばかりだった。
 と、そのときだった。彼女の口元から、何かがひゅるひゅる、と出てきた。はじめは気のせいかと思った。タバコの煙かもしれない。けれども、それにしては様子がおかしかった。彼女の口から出たものは、糸状になって、そのまま風に乗ってふわふわ舞い、上へ、上へとらせん状に延びていった。いつまで経っても消えない。私はガラスに顔を近づけて、目を凝らして先端の行方を追った。すぐに追いつかなくなってしまった。道にはぽつり、ぽつりと人通りがあるものの、誰もそのことに気づいていない様子である。そこに彼女がいることにすら、気にもとめずに行き過ぎていく。レジでセブンスターをカートンで買い、店を出た。
 公園の入り口は、すべり台から対角線上の、ここからいちばん離れたところにあった。フェンスに沿って、細い道が公園のぐるりを囲むように走っている。彼女に気づかれないように、私は背中側の道へ入っていった。フェンスを右手にたどっていくと、すべり台がしだいに遠くなっていく。コンビニの前の通りにある街灯を頼りに、私は彼女から目を離さないよう注意しながら、入り口へ急いだ。
 あたりはすっかり暗くなっている。雨上がりのもやのせいもあって、半分ほど来ると彼女の影がかすんでしまった。時折赤くともる、タバコの火だけが目印である。都心でも一歩裏へ入るとこんなに暗いのか、思いながら、ふと気配を感じて顔を上げると、頭上にまねき猫の底が見えた。しぜんと急ぎ足になる。
 さびついた開閉式のフェンスを、音を立てないよう気をつけて開け、入り口を抜けると、今度はフェンスを左手に、逆にたどっていく。タバコの火はなんとか見える。ここまで来れば大丈夫、やがて、街灯の明かりが届いてきた。街灯は公園に背を向けて建っていたが、もう関係なかった。すべり台のてっぺんは、手すりの輪郭までくっきりと見えた。
 彼女はいなかった。
 私がタバコの火だと見当をつけていたのは、わきにかけられたままの、彼女が置き忘れていった傘の柄の一部だった。
 コンビニの袋を提げたまま、ぼんやりと、しばらくその場に立ち尽くしていた。彼女はいないのだ。急に頭上のまねき猫がうらめしく思われてきて、私は上空を見上げた。
 不意に、風が過ぎ、私の頬をなでた。湿っぽい重たい風で、ぼうっとした頭を、ますますはっきりしないものにした。
 風といっしょに、何か聞こえたような気がした。耳の奥をくすぐるような音だった。風の音が一音一音、きちんと音階を持ったものとして聞こえてきた。
 私は駆け出し、その場から離れた。不安だった、急に心細くなった。十メートルほどして振り返ると、さっき私の立っていたところのちょうど真上に、細い糸状のものが、きらきら光りながら風に乗って、渦巻いているのが見えた。左胸がこくん、と痛む。


4.口笛を盗む

 背中で、ぱたん、とドアの閉まる音がした。後ろがどうなっているか、振り返らなくてもなんとなくわかった。そこには何もない。冷蔵庫のドアは閉まるのと同時に消えてしまった。赤いまねき猫はもちろん、棒杭のような建物もないので、影もできない。それどころか、赤土の荒野すらなかった。
 ひざの裏がちくちくするので、見ると、カナヘビが私の足によじ登っていた。Tシャツのすそに前足が届くと、つめを引っかけて跳び上がり、宙返りして私の肩へとまった。
「うん、何もねえよ。雲も、空もねえ。あっち側へは誰も行かねえな。行っちゃいけねえってわけじゃねえけども。俺もよくは知らねえが」
 目の前にある赤いまねき猫の彫像は、目の前にあるように思われるだけで、実際はかなり遠くにあるらしかった。さっきからずっと歩きどおしなのに、距離がさっぱり縮まらない。灰褐色をした棒杭のような建物は、まねき猫よりも、もっとずっと奥に建っているように見えるのだが、濃い影がこちらまで伸びてきているので、遠近がますますわからなくなってくる。まねき猫の影はどこへいったのか、見当たらない。
 と、いきなりだった。首筋に刃物を突き立てられたのかと思い、横目で見たが誰もいない。
「俺だ、俺だ。何をぼうっとしていやがん。噛みつくまで気づかねえたあ、アンタの往生際の悪さも相当なもんだね、こりゃ……まあいいや、さあ入った、入った」
 言われてあたりを見回したが、何も変わった様子はなかった。赤いまねき猫の彫像は、あいかわらず目の前に見えたままである。入る場所などどこにもなかった。カナヘビが耳元まで上ってきて、しきりに何か騒いでいる。
「――中でしっかり仕事とやらをしてもらってだね、きっちり踏ん切りをつけてもらわにゃあ……」
 声が聞こえたとたん、私は反射的にしゃがみ込んでいた。足下に金庫の扉があった。ダイヤルの取っ手をつかんで、認証番号を回しはじめた。番号は以前から知っていたような気がした。金庫は子供がふたりくらい、楽に入れるほどの大きさで、それが仰向けに倒されて、背中半分が赤土に埋もれていた。開ければ、中はまた階段になっているはずである。迷いはなかった。

 ――道の上の方に三本、給水塔の並んでいるのが、影になって見えてきた。地図にあるとおりだった。あれを目指して登っていけば、目的地へ着くはずだった。つないだ手を彼女が引っ張る。先にジャンケンをしておこう、と言う。彼女はとっさのときパーを出すくせがあることを、私は知っていた。私はチョキを出した。私の負けだった。
「わたしって、そんなにわかりやすいふうに見えるかなあ」
 ふざけて、勝ち誇ったように笑っていた。私たちはまた、だらだらな坂を歩いていった。
 しだいに道幅が狭くなってきて、あたりが暗くなったかと思うと、雑木林が現れた。彼女の声のする方へ行ってみる。ベニヤに角材を打ちつけただけの、粗末な立て札があった。腰くらいの高さなので、注意していなければ通り過ぎてしまうくらい目立たない。この暗い中でよくわかったな、と思った。
 石段を見上げた。先が見えない。上につく頃には朝になっちゃうね、と彼女が言った。まだ六時ちょっと前である。ジャンケン、なかったことにしてあげようか、と言うので、断った。暗いせいで見えないだけだ、と思った。
 登りはじめてしまえばどうということはなかった。リズムに乗って、一歩一歩、確実に前へ進んでいる感じがよかった。背中で彼女がしきりに心配する。大丈夫。
「けれど、こんなに暗いと、なんだか怖いね」
 彼女が言った。平気、平気。他にも誰か、同じような連中が、いるかもしれないし。
「どれくらい、いるかなあ」
 それは、わからなかった。
「いないほうが、いいね」
 一回、大きく揺すって、もう一度、背中をしっかりつかまえた。セーター越しに、彼女の胸のふくらみが感じられた。――

 そこでいったん顔を上げて、カナヘビを見ると、それが合図だったのか、今度はカナヘビがそめき猫を見上げた。
「こんなもんでどうでしょう、ねえ、ダンナ」
 そめき猫は何も答えなかった。けれども、カナヘビにはわかっているらしく、しきりにふん、ふんとうなずいたり、ぺこぺこと申し訳なさそうにおじぎをくり返したりしている。どうやらそめき猫の声は、人間には聞こえないようである。カナヘビがげんなりした表情で私を見た。
「アンタ、もうちょっとグタイテキに書いてくんなきゃ困るよ、グタイテキに。アンタはいいだろうけども、俺あもう、ダンナのあの嫌味なしゃべり方にゃうんざりしてん。『アタクシには、何のことだかさっぱりわかりません』ってな」
 そめき猫の中はがらんどうで、焼き物だったから、まわりを白いざらざらした壁で囲まれていた。真ん中に作り机をひとつあてがわれて、そこで仕事を進めるよう命じられた。彼女の思い出をふんだんに盛り込め、と言う。はじめからそのつもりだったし、落ちついて仕事ができれば場所などどこでもよかったので、承知した。彼らが何を考えているのかはわからない。わからなかったが、逆らう気はまるで起こらなかった。ずっとここにいて、こうしていてもいい、と思った。
「そらあいい心がけだよ、アンタ。見ねえな、顔つきがまるで違ってきたよ」
 目の前に、ぴかぴかに磨かれた長方形が現れた。真正面に男がいて、まっすぐこちらを向いている。削げ落ちた頬に無精髭で、けれども、その目はガラス玉のように透き通っている。落ちついた、静かな表情をしているが、こちらへ語りかけてくることは何ひとつとしてなかった。ろう人形か、マネキンのようである。私は、これが私だ、と思った。鏡が消えてしまうと、私はまたキーボードへ向かった。

 ――このあたりの地形は高台になっていて、まだ手つかずの緑が残っている。ガイドブックによると、石段を登り切ったところが展望台のはずだった――展望台と呼べるのかどうか、ぱっと見、ただの空き地のように見えるところへ、取ってつけたような東屋があり、三方を斜面の縁に沿って柵で囲んである。他に、人は誰もいなかった。
「?市街が一望できます?って書いてあったよ」
 けれども、あいにくの花ぐもりで――いや、それ以前の問題だった。このへんの市街地など、たかが知れていた。夜景というのは、おそらくあのまばらな灯のことをいうのだった。あたりはもう真っ暗で、真下にあるテニスコートの照明がかろうじて届くのが、この場所の唯一の明かりだった。
 私たちは東屋のベンチに腰かけた。東屋からも夜景は見えたが、長方形のベンチは長い板を組み合わせただけのもので、背もたれなどもちろんなかった。ちょうどいいし、せっかくふたりきりなのだから、と抱き合ったまま腰かけることにした。私がふつうに腰かけて、その上から私にしがみつくようにして彼女が座る。そうなると、どちらが夜景の見える方を向くかが問題だった。裏をかいたつもりだったのに、また私が負けた。私は彼女をかかえながら、さっき自分が苦労して登ってきた石段を見ていた。
 すると、肩越しに、彼女の吹く口笛が聞こえてきた。彼女は口笛を上手に吹いた。少し厚めのくちびるをとがらせながら、どうやったらこんなに器用に吹けるのか、いつも不思議に思った。曲は例によってお得意のやつだったが、いつも聞くのとは、なんだかメロディが違って聞こえた。今のほうがずっといいと思った。あたりは静かで、真っ暗だった。耳元に、彼女の吹く口笛だけが、いつまでも響いていた。――

 翌日、私はまた公園へ行った。その日私は休みで、とくに人に会う用事もなく、わざわざ都心まで出かけていく必要などなかった。朝、カーテンを開けると、昨日とは打って変わって、雲切れひとつない青空である。遠くの高層ビル街もすっきりと見渡すことができた。まねき猫も見えない。弁当を持って、近所の草野球でも見に行った方がよさそうだった。けれども、目が覚めたとき、私はどういうわけだかもう一度、あの公園へ行かなければいけないような気がした。
 昼前から電車を乗り継ぎ、人の流れに逆らうようにして、私は公園へ向かった。いったい私は何をしているのだろう、途中、何度もそう思った。わからなかった。地下道を抜けるとき、いつものようにポスターのコピーを見る。?馬鹿らしいね?――。
 直接公園の入り口へ出られるよう、裏通りを選んで歩いていった。プレハブ住宅の似たような家並みが続く中に、バラ線のついた柵でぐるりを囲まれた空き地が、そこいらにあるのが目についた。どこも荒れ放題で、比較的、まわりの建物の背が低いこともあって日当たりがよく、草いきれでむせ返るほどだった。太陽が高くなるにつれて、どんよりと熱を持った空気が、全身の皮膚をおおっていった。
 平日の昼間ということで、表通りとは対照的に、このあたりに人通りはほとんどなかった。目のやり場に困るほど薄着をした中年女が、派手な原色の洗濯物を干しながら、通りを挟んで向かいの酒屋に大声で話しかけている。日本語ではなかった。隣りは小さな団地だった。全部で三棟ほどで、もとは白い建物だったのが、黒い排ガスで灰色になっている。そのうちの一部屋から、大音響の演歌が聞こえてきた。私はなんだか楽しくなってきた。汗まみれにならないよう、わざとゆっくり歩いた。
 公園の入り口は、大通りを渡って路地を少し入ったところにある。路地の左右は直接ビルの壁なので、ここだけは昼も夜もなかった。飲食店の入っている方の壁から、細い鉄パイプが二、三本突き出ていた。どこへつながっているのか、壁と平行に十センチほどの隙間を保ったまま、くねくねと上へ伸びている。先を追っていると、急に暗さが増したような気がした。なんのことはない、まねき猫が降りてきたのだった。
 公園には誰もいなかった。開閉式のフェンスは開けっ放しで、傘はすべり台のてっぺんにかけられたままである。すべり台の隣り、フェンス沿いのベンチに腰かけて、タバコに火をつけた。強い陽射しにさらされて、タバコの煙は宙に出ることなく、手元からすぐに消えていった。まねき猫が斜向かいに見えた。だいぶ低くまで降りてきている。腹に抱えた小判がまぶしかった。
 私は昨日見た光景を思い出しながら、くちびるをとがらせてみた。赤い髪の女の様子から、やってみれば案外簡単に、私の口からもあの糸状のものが出てくるような気がしたのだ。見よう見まねで、くちびるの先に意識を集中させた。はじめ、出てくるのは空気ばかりだった。タイミングによっては、ふぃー、ふぃーと間抜けな音を立てる。その「ふぃー」が、時折、ぴいいっときれいに響いたので、しだいに私は夢中になっていった。
 組んだ足の、ひざの上に乗せた手首が目に入った。時計の針は二時を回ったところだった。公園に着いたときは昼過ぎだったから、二時間近くもそんなことをやっていたことになる。考えてみれば馬鹿らしい話だった。引き返して映画でも見るなり、しようと思えばできたのである。けれどもそのとき、私は一生懸命だった。
 私はもう、「ぴいい」はふつうに吹けるようになっていた。それで少しうれしくなって、思いつくままにいろいろな曲を吹いた。一曲、うまく吹けると気持ちのいい箇所のある曲があって、そのことに気づいてからは――ちょっと考えたけれども――その曲ばかりを吹いていた。しばらくして、これはただの口笛じゃないか、と思った瞬間――くちびるの先から何かが覗いたのを見た。
 背中越しにクラクションが鳴る。身体中の筋肉がいっぺんに縮んだような気がした。
「もう少しだったのになあ」
 声のする方へ顔を上げると、すべり台のてっぺんに、彼女がいた。髪を赤く染めていたが、それは彼女だった。てっぺんに腰かけて、タバコを吸っている。心持ちあごを上げて、目をまるくして煙を吐き出した。
「私の口笛、知りませんか。夕べ吹いた口笛、どこへ行ったか、知りませんか」
 歌うように言いながら、するすると降りてくると、私の目の前に立った。
 昨日はあんまり暗かったし、腰かけていたのでわからなかった。小柄で、白くて細い手足をして、けれども黒目がちな目が、どこか不思議な、芯の強さみたいなものを感じさせた。よく似ている、と思った。
「私の吹いた口笛、夕べ盗んだの、あなたでしょう」
 いたずらっぽく笑うと大きな前歯が覗いた。いきなりそんなことを言われたので、なんだかあっけにとられてしまい、何も答えられずにいた。じいっと私の顔を覗き込んでくる。黒目がゆらゆら揺れていた。しばらくして、思い出したようにまわりを見回すと、
「こっちへ来て」
 不意に、彼女が駆け出したので、私も立ち上がって後を追った。ふたりしてタバコの吸いさしを指の間に挟んだまま、右腕をおかしなふうに振って走っている。前へ、前へと延びていく影を見ながら、なんだか、このままどこか遠くへ行ってしまいたいような気がしてきた。
 公園を出て路地を抜け、大通りを横切って裏通りへ出ると、彼女が走るスピードをゆるめて私の隣りへ来た。
「どこか、高いところはないかなあ」
 言いながら、ジーンズの後ろのポケットから携帯用の灰皿を取り出し、最後のひと口を吸って中へ入れ、黙って私の方へ差し出した。息が切れてしまって、それどころではなかったのだが、私も無理やりひと口吸って、その中へ入れた。
「ほんの少しだけ、風のあったほうがいいから。今日は風、全然吹いていないでしょう」
 彼女は伸ばした腕を引っ込めると、灰皿のふたを閉めて、後ろのポケットへねじ込んだ。
「疲れたね。もう走れないね」
 息ひとつ乱れていないくせに、そんなことを言ってからかうように笑いながら、また私の顔を覗き込む。それから、小さくうなずいて、
「いいところがある。もう少しだから」
 そうして、また駆け出した。彼女の、赤く染められた髪が、陽の光に透かされて、燃えるように跳ねている。足がもつれてしまって、それでもなんとかついていこうとすると、彼女が振り返って手招きをした。早く、早く。口笛の吹き方を、あなたにも教えてあげるよ。

 もう少し、と言ったが、放っておけば彼女はどこまでも行ってしまいそうな気がした。高架下を抜け、古着屋の前を行き、古本屋、中古レコード店を過ぎてこの通りを抜けた。消防署、ガスタンクの前を通ったあたりまでは覚えているのだが、そこから先は、人ごみに見え隠れする彼女の、細い、小さな背中と、赤い髪が背中で揺れていたことしか思い出せない。ゆるやかな坂道を上っては下り、いくつもの角を曲がって、気がつくと、そこはまったく知らないところだった。いつか、あたりは薄暗くなり、人影もまばらになっている。
 ひと気のない横道へ入ると、雑居ビルの裏に出た。非常階段がこげ茶色にさびついて、今にも崩れ落ちてきそうである。三階建ての、あまり背の高くないその先に、四角く切り取られた空が見えた。周囲の暗さに慣れてきた目には、茜色がまぶしく映った。
 非常階段の入り口は格子状の観音開きになっていて、真ん中に錠が下りていた。扉の高さは私の胸くらいもあるのに、彼女は両わきのとめ金に足をかけ、それをひょい、ひょいと越えていく。靴音を響かせて、階段を最初の踊り場まで上っていった。私が中へ入らずにぐずぐずしていると、振り返って言った。
「ここでね、わたしも教えてもらったんだ、お父さんに」
 彼女のやった要領で、両わきのとめ金に足をかけて、私も扉を越えた。早く、早く、彼女は笑いながらそう言って、踊り場で私の来るのを待っていた。
「私の口笛を盗めるくらいだから、きっと、あなたにも吹けるはず」
 階段を上り切ると、そこにもやっぱり同じような扉があり、けれども錠は下ろされていなかった。私たちは扉を開けて屋上へ出た。夕焼けがあたりを染めている。彼女の顔も、白いシャツも、今はみんなオレンジ色だった。赤い髪が金色に光っている。遠く、前方に高層ビル街が見え、そのうちで一番高いものの少し上くらいまで、くっきりとした境を持って、群青がおおいかぶさるように迫っていた。夜が近づいてきているのだ。
「時間だ」
 彼女はつぶやいて、私の腕をつかみ、そのまま金網のところまで引いていった。私がひじを曲げてかけられるくらいの高さである。彼女が隣りに立って、身を乗り出すようにして頭を出し、そうしてまじめな顔をして言った。
「私のするのを、よく見ていて」
 彼女はあごを心持ち上げて、空へ向かってくちびるをとがらせると、軽く目を閉じてすう、と息を吐いた。すると、くちびるの先から、何か光の玉のようなものが覗いて、口元が一瞬、明るくなった。そうして、くちびるをさらに細めると、光の玉がほどけていくように、細い、糸状のものが流れ出てきた。ふわり、ふわりと切れぎれになって、銀色にまたたきながら浮いている。
 かすかに音がした。一音一音、高い音や低い音が、強く弱く、でたらめに、けれども、心のやわらかいところまで染み込んでくるような、そんな音である。糸状のものは宙に出ると、らせんを描いてくるくる回りだした。すると、音はやがて、ひとつの旋律になって耳に届いてきた。さっき、公園のベンチで私の吹いていた口笛と、同じ曲だった。
 彼女のお気に入りだった、あの曲だ。
 そこでふっ、と吹き切ってしまうと、あたりが急に暗くなったような気がした。吹き出した銀色の切れぎれだけがぼんやりと明るく、そのまま風に乗って、手の届かないところへ行ってしまった。
「世界中の憎しみや哀しみが、何か他の、優しくて素敵なものに変わりますように、って」
 彼女は言って、煙草に火をつけた。
「本当に変わるんだよ。中国の魔法のひとつなの。私のお父さんは、中国の魔法使いなんだよ。ふだんはラーメン屋だけどね」
 私は黙って聞いていた。信じていないでしょう、と彼女が笑うので、何か言おうとしたけれども、うまく話せなかった。そういえば、こんな気持ちになったのは久しぶりだった。
「あなたは、ちょっと疲れていたの。だから、私の口笛が聞こえたんだね」
 ひとりごとのように言って、またくちびるをとがらせた。私が横顔を覗くと、それを見てふう、と今度は煙を吐き出して、また笑った。なんだか恥ずかしくなって、私も笑った。
「ほらね、変わったでしょう」
 高層ビル街のまわりだけ、空がぼうっと白く、浮き上がって見える。どこへ行ってしまったのか、まねき猫の姿はなかった。ライターをつけると炎がちらちら揺れて、明るいのは手元だけである。彼女を見ると、いたずらがばれた子供のような顔をしていた。
「もう帰らなきゃ。どうしよう、あなたに話したいことがあるのに」


5.Rather shed SWEAT than tears!

 世界中の憎しみや哀しみを、優しくて素敵なものに変える魔法――けれど、魔法よりもずっと簡単で、もっと素敵な方法があるの――別れぎわ、彼女はそう言った。言いながら私の手を握っていた。小さな手だった。小さな手が、私に何かを伝えようとしていた。込められた力を感じながら、私はなんだかうれしかった。
 地下道のポスターが来るとき見たものと違っていた。コピーが?馬鹿らしいね?から?こっちを見て?に変わっている。染金のマークが消えて、福助のマークに江戸文字で「複助」と入っていた。その日のうちに張り替えられているのは、これがはじめてのことだった。
 赤い髪の女にくらべると、ポスターの女は、それほど彼女に似ているというわけではなかった。よく見ると、ほんの少ししか似ていないような気もする。けれども、コピーには?こっちを見て?とあった。なんだか見透かされているような気がした。
 ふと、彼女は今どうしているだろう、と思った。部屋を出て行ってから、もう半年になる。
「彼女は今、新しい恋人といっしょに、幸せに暮らしています」
 目の前に女が立っていた。
「そんなことより、わたしといっしょに行きましょう」
 ポスターの女である。パジャマを着て、手にはペットボトルを提げている。話し方があんまり大人びていたのでびっくりしたが、たしかに彼女だった。何がなんだかわからなくなってしまい、おろおろしていると、
「そういうことだから駄目なんですよ、わたしが行きましょう、と誘ったのだから、いっしょに行けばいいのです」
 けれども、どこへ行けばいいのかわからなかった。
「あなたの家へ行きましょう、そうしましょう」
 コマーシャルに出ているくらいだから彼女は有名人だろう、すれ違う人たちが彼女に気づいたらどうしよう、とそればかりが気になった。見つかったら、まわりを大勢に取り囲まれるかもしれない。身動きが取れなくなり、知らないうちに写真など撮られて、テレビのワイドショーや週刊誌の取材、あることないこと言われたり書かれたりして、そうしたら――そうしたら、あいつは私のことを思い出すだろうか。
 改札までの五十メートルくらいの距離が、果てしなく続くように思われた。
 すると、彼女が言った。
「彼女は今、幸せなのです。思い出したところでどうということもありません。派手にやっているなあ、そんなものです。それに、わたしのことなんて誰も気にとめやしませんよ」
 彼女の言うとおり、すれ違う人たちはみな素通りだった。後から振り返るのはおろか、視線をこちらへ向ける者すらひとりもいない。たまに目が合っても、私のきょろきょろと落ちつきなくしているのを、いぶかしげな表情で見返してくるくらいである。そういうものなのか、切符を買ってホームの真ん中あたりに出ると、そこでようやく落ちついてきた。
 けれども、様子が変である。ラッシュアワーだというのに、ホームには人影がなかった。それも私たちのいる五番線だけでなく、振り返って四番線にも、その奥の三番線、越えて二番線、一番線に沿った突き当たりの壁まで、すっきりと見渡せてしまう。誰もいないのだった。都心のこれだけ大きな駅のホームに、そんなことがあるのだろうか。
「きっと、みんなわたしたちのために、どこかへ行ってしまったのでしょう」
 言われてみればそんな気もするので、黙って列車の来るのを待っていた。しばらくすると急行が入ってきて、私たちは乗り込んだ。始発駅なので、他に乗ってくる客はいない。降りてくる客もひとりもいなかった。どうでもよくなって、私はシートの上に寝そべった。たしか二駅ほど過ぎたあたりだったと思うが、なんだかうとうとしてきた。
 気がつくと部屋の前である。私は彼女と手をつないで立っていた。
「あなたに、お話したいことがあるのです」

 座布団の上にあぐらをかいて、窓の外をぼんやり眺めていた。カーテン越しだったから、カーテンを眺めていたのかもしれない。一面の群青で、真ん中に、何か赤いかたまりのようなものが見えた。その赤があんまり濃いので、まわりの青に紛れてしまいそうである。と、しだいに赤がにじんでくるように思われた。にじんで、膨れてきた。
「こっちへ来てますね……気づかれないといいのですけど。あれがソメキンの仮の姿で――こちらでは、『まねき猫』と呼ばれているのですね」
 立ち上がって行って見下ろすと、建物に面して走っている通りの、その向こう側に沿って、軒の低い、似たような造りの家並みが続いている。さびて腐ってしまったトタン屋根が重なり合って、境い目に陰をつくっていた。よく見ると、その隙間から何本ものアンテナ線が、上へ向かって延びている。どれも一メートル足らずのところでぷつん、と切れて、そこから短くでたらめな方向に分かれていた。
「わたしたちフクスケが、あらかじめ、しこんでおいたものです。悪く思わないでください、わたしたちはただ、あなたを助けたかったのです。だいたい、あなたはいつも不安定すぎるんですよ……ええと、わたし、これ飲んでもいいでしょうか」
 後ろで彼女が冷蔵庫を漁っていた。中のものを引っかき回して、賞味期限がどうのと、なにやらごそごそやっている。
 ここは元は工場だったのを、人が住めるように改築したとかいうことで、そのため造りが変わっていた。全体としては三階建てで、私の部屋は三階の上の屋上にあった。前は給水用の管理室だったところで、よほどのことがない限り誰も上ってこない。まわりに他の部屋がないのは気楽だが、階段で三階まで上った後、はしごを使って屋上へ上がるので、はじめのうちは妙な感じがした。越してきたとき、私には荷物らしい荷物がなかったので、管理人に勧められるまま、この部屋に決めてしまっていた。なんでもよかったのだ。
「それがいけないのです。あなたのそういう態度が、彼らに付け入るすきを与えるのです。連れて行かれてから抵抗するのでは、いちいち面倒でしょう。あ、これもいただきます」
 言いながら、笹かまぼこの封を開けている。下手に刺激して騒ぎ出されたりしても面倒なので、あきらめてしばらく相手をすることにした。
「ソメキンは悪徳業者です。彼らは今、あの手この手を使って、つじつまを合わせようとやっきになっています。殺してでも、あなたを連れていくつもりでしょう。そんなことは許しません。死は運命にゆだねるものです」
 彼女の言うには、両手を挙げた赤いまねき猫は「そめき猫」といって、ソメキンが私だけに見せている現象で、私にしか認識できないものらしい。赤い髪の女も同じようなもので、明日私が約束どおり彼女に会いに行けば、すべてが連中の計画どおりになるのだという。何がなんだかさっぱりわからなかった。
 私は適当に返事をして、彼女を駅まで送っていった。途中、彼女は何度も私に念を押した。あなたはまだ死んではいけない人です、あなたがこれから書くものは遺書ではありません、人生いろいろ、生きていればいいことだってあります、などと縁起でもないことばかり言う。なんだかうんざりしてしまった。
 ひとつだけ、気になることがあった。改札で別れるとき、駅前で買った焼き鳥をみやげに渡しながら、聞いたみた。一瞬、彼女の顔がゆがんだように見えたので、おや、と思った。
「……知りたいですか」
 
 ――あるとき知り合いから、彼女が今、別の男といっしょに暮らしている、という話を聞いた。
 相手の名前を聞いたら、職場の後輩だった。
「結局、おまえってさ――」
 後のことはよく覚えていない。気がつくと、コップや皿が床に落ち、粉々に割れていた。真ん中には知人が引っくり返っている。
 私は酒を飲んだ。飲んだくれて、まわりの人間に愛想を尽かせた。いろいろなものをいたずらに失っていき、しばらくしてすべてをすっかり失っていることに気づいた。金も、仕事も、友だちも、持っていたもの全部。――

 そんなことができるほど、私は素直ではなかった。そんな勇気もなかった。そんなふうにできたらなあ、と思いながら、どうせまた、どうにかこうにか日々をやり過ごしていくのだろう。
 そういうことか、と思った。
 つまらなかった。
 私はただ、つまらない、と思った。
 帰ってきて部屋のかぎを開ける。玄関でひとり、スニーカーを脱ぎながら、つまんねえなあ、とつぶやいてみる。声に出してしまうと、なおいっそう、つまらないような気がしてきた。自分は本当につまらないのだな、と思った。何を見ても、何を聞いても、何をしていても、何も感じない、私はただ、ああ、つまんねえ、つまんねえなあ、と思った。

 翌日の撮影は深夜までかかった。途中で機材が一台、故障したのである。仕事を休んで公園へ行くつもりだったが、休まなくてよかった、と思った。
 仲間のひとりが予備の機材を手配しに行って、その間、何もすることがなくなってしまった。部屋の壁に寄りかかって足を伸ばし、カバンを引き寄せて中からヘッドフォンを出した。私は最近、空き時間によく落語を聴いていた。『お直し』、『三枚起請』、『五人廻し』、『文違い』――自分で選んで持ってきたものだった。
 落語を好きになったのは、彼女が部屋を出て行ってからのことだ。音楽は何を聴いても退屈になってきて、聴く曲がなくなってしまった。仕方なしに図書館へ行って借りてきたのが、古今亭志ん生の『品川心中』だった。布団の上に仰向けになって聴いていた。途中から、涙が出てきてしょうがなかった。目じりからこめかみをつたって、耳の中へ引っ切りなし流れ込んできた。笑い話だ、落語だ、と思った。私は全集を買い漁った。
 また落語っスか。頭の上で声がした。ヘッドフォンをはずして顔を上げる。
「――あれ、近いうち逝くんじゃないかと思ってたんスよね。よりによって今日かあ、俺、今日、早く帰りたかったのになあ」
 撮影終了後、私は公園へ向かった。
 地下道はもう閉まっていた。地上に出て、改札のわきを通り過ぎながらちら、と終電のことを考えた。今ならまだ間に合うな、と思った。けれども、誰かが私を待っているような気がした。公園で私が来るのを待っている、そうして、それは赤い髪の女ではなかった。そんな気がした。誰なのかはわからない。
 真夜中の裏通りは、昨日とは別の世界のように思われた。昼間見えていたもの、聞こえていたものはみな、闇の中に紛れてしまっていた。そうして取って代わるようにして、今度は昼の光から開放されたものが、じわり、じわりと押し出されてくる。
 プレハブ住宅の並ぶ通りへ出た。戸を閉め切っているのか、どの家からも灯りがもれてこない。中に人が積み重ねられて、押し込まれているはずだった。そんなふうに考えてみた。空き地の草が穏やかな匂いを残していて、この匂いはいつか嗅いだことがあったな、と思った。たしかに知っているような気がするのだが、それがどこだったか思い出せない。それでいいと思った。
 原色の洗濯物は取り込まれていて、物干しの奥を見渡すことができた。窓が開け放たれているのに、家の者はもう寝てしまったのか、部屋の中は真っ暗だった。時折、ちらちらと紫が光って見えるのは、テレビがつけっぱなしなのだろうか、けれども、音はここまで届いてこない。ラーメン屋のシャッターは下りていて、電気の消えた看板もひさしの下に引っ込められていた。なんだか灰色の装甲車みたいで、そこがラーメン屋だったと思い出すのに、ちょっと間がいった。隣りの団地は黒い影になって、こんなに高い建物だったのか、巨大な壁のように見える。
 ビルに挟まれた路地はあいかわらず暗かった。昼間と違って天井も暗く、鉄パイプも見えない。前の方に縦長の隙間がぼうっと口を開けているだけである。その先に公園があった。
 向こう側の通りに街灯があるので、目が慣れてくると、公園のまわりはぼんやりとした紺色に見えた。入り口のフェンスを開けて、中へ入る。
 すべり台の上には誰もいなかった。走っていって上ってみる。赤土の上に落ちた影が、いつか図書館で見た、現代美術の何かに似ているような気がした。ほっとしたような、さみしいような気持ちで、今、ここから空へ向かって大声を出したらどうなるだろう、と思った。けれども、のどからはくぐもった音が出てきただけで、あたりはよけいに静まり返ってしまった。
 ベンチの上に誰かいた。ひょろ長の身体が、足をこちらへ向けて横たわっている。Tシャツにジーンズをはいて、そのジーンズはひざから下を破りとられていた。靴ははいていないように見える。すべり台から下りて、私はベンチへ近づいていった。
 汚らしい髭面だった。目の落ちくぼんでいるのが、まぶたを閉じている上からでもわかった。街灯の灯りに照らされて、顔の陰影がくっきり浮かび上がっている。汗ばんで、てらてら光っていた。時折、口の端がぴくっ、ぴくっと震え、腹のあたりも、呼吸に合わせてかすかに上下している。男は眠っていた。寝る一方だった。
 それは浮浪者ではなかった。それは私だった。
「おい――」
 声をかけた。
「おい」
 身じろぎひとつしない。
おい、起きろ! 起きねえかこの野郎!

 目が覚めて、まず目に入ったのは、真正面の巨大な彫像だった。それがすべり台だとすぐにわからなかったのは、逆光のせいで正面が影になっていたからだった。私は公園のベンチにいた。見上げると、東の空に、星はもう見えなくなっていた。ヒグラシが鳴いていた。夜明けだった。あたりを見回してみても、ここがどこなのかまったく見当がつかない。目の前に建っているのは、猫の焼き物なんかじゃなかった。そんなもの、あったのかなかったのか、それすらわからなかった。彼女はいない、そんなことはもうずっと前にどうしようもないこととして、私の中でなんとかなっていたはずだ。口笛なんか聞こえなかった。聞いたことすらなかった。わからない。何もわからない。自分はまだ、生まれたばかりのような気がした。私はたった今、この場所に降ってわいたのだ、と思った。時間も空間も超えたところから、まだやってきたばかりで、この世界のことは、何も知らないし、何もわからないのだった。
 それが嫌なら、何かをはじめるしかないだろう?

 <了>




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